ほんとうに人を愛するということは、 その人が一人でいても生きていけるようにしてあげることだ。
三浦綾子「道ありき」


見えるところに落とし穴はない


時計の針の音が眠れない夕歩に、プレッシャーを与えるように響く。
どうにか眠れるようにと思いつつ、せわしなく寝返りを打つ。
眠れぬままにどれくらいの時間がたっただろう。
夕歩が寝返りを打つ度に、衣擦れの音が部屋に響く。

眠れずにいる夕歩の体から、無情にも体温を奪って行く、夜の冷たい空気。
昼間はあんなに暑かったというのに。
もう、秋なのかもしれない。
半袖の袖から剥き出しに伸びた夕歩の腕は、すっかり冷たくなっていた。
夕歩は布団を肩まで引き上げて、横向きに寝がえりを打った。

夕歩が背中を向けた先、隣の布団で眠る順の起き上がる気配がした。
もしかして、自分が寝返りを打ったりしていたせいで起きてしまったのだろうか。
いや、ただ単に目が覚めただけかもしれない。
布団を抜け出した順の歩く足音が、夕歩の耳にも聞こえた。
順は開け放たれた窓を閉めた。
それから順は自分の布団に戻らず、夕歩の布団に手をかけた。

「眠れないの?」

順はそう言いながら夕歩の布団の中に潜り込んで、すぐ隣に横になった。
順は夕歩が眠れずにいることに気づいていた。

「ごめん、起こした。」

自分のせいで起こしてしまい夕歩は申し訳なく思った。
その気持ちが先走ったせいで、布団に入ってきた順を拒絶するタイミングを失した。
もっとも、隣で寝ていようと結局順は自分に何もしないことを夕歩は知っているので、そんなことはどうでも良かったが。

「別に良いよ。」

夕歩は背中に順の温かな体が寄せられるのを感じた。
順の手が夕歩の体に伸びて、抱き寄せられる。

「もう秋だね。」

夕歩の耳に順の声がやたらと近い。
指先まで温かい順の体が夕歩の冷え切った体を温めて行くようだった。
しかし、夕歩は体をよじって順の腕から抜け出そうとした。

「いいよ、順…」
「えー、夕歩がこんなに寒そうにしてるのに…」
「だからいいんだってば。」
「ん?」

夕歩の「いい」は拒絶の意味である。
「だから」とのつながりがおかしいのでは、と順は不思議に思った。

「私にくっついてたら順が冷たくなっちゃうでしょ。」

夕歩は順の肩を押した。
しかし、そうして離れた夕歩の体を、順は強引に引き寄せた。

「そんなことない。むしろ…熱いくらいだよ。」

嘘じゃない。
順にとって、夕歩のそういう優しさは熱いくらいに心に沁みた。

「はぁ?それにこれじゃ、順が眠れないでしょ。なにも順も一緒になって眠れなくなることないよ。」
「今、夕歩から離れたって、眠れない夕歩が気になって余計あたしは眠れません。」

別に強引に引き剥がしても良かった順の体に、夕歩は自分の背中を預けた。
順の優しさが嬉しくないと言ったら嘘になる。
しかし、自分の冷たい体が順の体から温もりを奪ってしまうことが気にかかった。

「私が寝てても変なことしないでよね。」
「んー、それはどうかなぁー?」

言った後でなんとなく言わなければ良かったと思った。
自分の放った言葉の後、順が言い返してくるまでに、微妙な間があったことが夕歩の後悔を強めた。

以前に、夕歩は順に体を求めたことがあった。
しかし、順は曖昧な態度と言葉、そして壊れた笑顔ではぐらかしながら、結局夕歩の体には触れなかった。

夕歩の胸は痛んだ。

決して丈夫ではない自分の体を思ってくれていることは分かっていた。
だがしかし、順がくれるなら痛みでもなんでも構わなかったのに、それでもそんな風には自分を愛さない順の優しさを想うとなぜだか胸は痛んだ。

「おやすみ…」
「ん、おやすみっ。」

その言葉を最後に、会話は無くなった。

無機質な時計の針の音が、また夕歩の耳に耳触りに響き始める。
考えないように考えないようにと思うことで、余計に頭を離れなくなった順を求めた夜。
正直夕歩にとっては、順の腕の中の今この状況の方がよっぽど眠れないように思われた。

あのまま冷え切った空気に包まれている方が、よっぽど心安らかに眠れたのではないだろうか。
枕と夕歩の体の間、夕歩の首の下から順の白い腕が伸びている。
順の手に夕歩は自分の手を重ねた。

同じ部屋、同じ温度の中を生きているはずなのに、どうしてか順の手は温かかった。
しかし、重ねた自分の冷たい手が順の温もりを奪うことを思って手を離した。

触れても反応の無い順の手。

――眠れない夕歩が気になって眠れないとか何とかいって、結局先に寝ちゃうんだから。

夕歩の口元からは小さな溜息と苦笑いが零れた。


耳元をくすぐる順の規則的な寝息。
それに合わせて僅かに動く順の胸。
冷え切った体に温度を与える三十六度の体温。
それらは夕歩の眠気を誘った。

なにより、眠れない自分のそばにいることを選んだその優しさ。
不意に思うところあって眠れない夕歩に心の安息を与えた。


夕歩はゆっくりと瞼を閉じた。


夕歩の寝息が聞こえるようなってほどなくした頃、順は目を開けた。
目の前の夕歩の頭に自分の額を寄せて小さく一言呟いた。

「おやすみ…」

それから、目を閉じた。



+++
月を見ていた。
冷たい窓に頭をもたれて、闇夜を見上げた。
夜空にうっすらと滲むように広がった雲も月明かりを浴びて、それはそれは綺麗で。
空に吸い込まれそうになるくらいに、その景色がとても綺麗で。
眠れない彼女の退屈しのぎに丁度良かった。
布団の上であどけない表情で寝息を立てている愛しい人の寝顔を見ながら、一言だけ小さく囁いた。


「眠れないよ…」


+++つづく+++

さて、最後まで眠れずにいたのは順なのか夕歩なのか?
皆さんの想像力に可能性を!これがまりおねっとふぁんたじあクオリティーw
夕歩の場合、順の場合と色々妄想してみると面白いかもしれません。
私の中では眠れないのが誰なのか、決まった上で文章を書いているので、読んでて分かった方いらっしゃるかもしれませんw
お暇な方はそのへんも想像しながら読んでも良いかもしれませんね。

題名の前のちょっとの文章、いわゆる題辞、エピグラフを入れるのが好きです。
当サイトのSSに多い形式ですが、今回の題辞は人様の文章です。
それも私が最も尊敬し愛してやまない大作家三浦綾子先生のお言葉です。
うーん、心に響きますなぁw
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