予想外の連続
当たり前であるが、お風呂に入る時は、メガネをはずす。
そうなると、人と目が合う可能性があるわけで、それを恐れて私はいつも、入浴終了時間ぎりぎりに、お風呂に入っていた。
その時間は、いつも人がいなかった。
もっとも、裏では天地の虎だとかなんとか言われて恐れられている私が、その時間にいつもいるから、他の生徒がその時間に入浴するのを避けているだけかもしれないが。
今日もいつものごとく、誰もいない浴場に1人。
泳ぐのにも十分な広さのある湯船に1人浸かり、実に快適に過ごしていた。
寒さを忘れさせるお湯の温かさと、視界の中で漂う白い湯煙。
こんなにも広い浴場を1人で使っているのだから、たいそう贅沢なものである。
そうして、そろそろお風呂から上がろうかと思ったその時、浴室のドアの開く音が響いた。
誰か入ってきたようだ。
幸か不幸か、私はドアに背を向けてお湯に浸かっていたため、入ってきたのが誰か分からない。
聞こえるのは1人分の足跡。
一体誰だろう。
3年の誰かなのだろうけど。
私に声をかけてこないということは、私の知らない誰かなのだろうか。
振り向いて確認する勇気はない。目が合ってしまったらどうする。
その誰かが水道のコックをひねる音が聞こえ、シャワーの水が流れ落ちる音が響いた。
すべての物音、その1つ1つが浴室という特殊な空間の中で、反響した。
良い感じにのぼせてきた。
この空間に正体の知れない誰かと2人きりの気まずさもあり、早いところ抜け出してしまいたい。
しかし、それと同時に、そこにいる誰かとうっかり目があってしまったらどうしようという恐れから、立ち上がることができない。
私の頭の中で、思いつく限りの3年の生徒が思い出された。
実は、ゆかりだったりしたらどうしよう。とても困る。
夕歩。こんな時間にお風呂に入るかな?
夕歩の部屋の人。あの人もこんな時間には、お風呂に入らない感じだが。
おかみさんとか?でもあの人なら、声かけてきそうだけど。
そういえば、今日順のヤツ、まだお風呂に入ってなかったような…
もしかして、あいつか?そうだとしたら、大変危険だ。というか、もう手をくれな気がする。
ぼんやりとした頭で、考えた。
物音が止んだ。
少しの静寂の後、水の流れる床の上を、ピチャリと音を立てながら、歩く足音が聞こえた。
ああ、こっち来る…
いよいよ、逃げだすチャンスは無くなった気がした。その誰かが、湯船に体を沈める水音がした。
いや、もしかしたらチャンスかも。
今の隙に、ささっと上がって、浴室から出てしまえばいいのだ。
うん、そうしよう。
現実というものは、いつでも予想外の連続。
未来の予知など、誰にもできやしない。
背中に温かい波が押し寄せる。
水面に映る、輪郭の甘いぼんやりとした黒い影。
「綾那。」
「誰か」の手が私の肩に掛けられて、私の肩が跳ねた。
よく知ったその人の声に、私は振り返った。
+++
それは入浴終了時間約30分前。ようやく私は目を覚ました。
「あ、起きた。」
「ん…」
眠たい目をこすり、私は体を起こした。机の上で眠っていたせいか、首が痛い。
数学の問題集の上に、ネズミが張ったような字で書かれた数式が書いてある。
数学の宿題。
半分も終わっていない。
「大丈夫?もう、お風呂入って寝たら?入浴時間も、あと30分で終わっちゃうから、早くお風呂入っといでよ。」
2段ベッドの上の段から、ルームメイトの彼女が言うのが聞こえた。
彼女の方を向こうと顔をあげた時に、目に入ってきた部屋の明かりが、目を開けているのも辛いくらい眩しかった。
目を擦りながら、ゆっくりと頷いてから私は荷物を持って、浴場へと歩き出した。
入浴時間の終了間際は、人が少ないと聞いているので誰もいないだろうと思っていたら、脱衣所に誰かの荷物があった。
しかも、その荷物の隣に、あの人の黒いフレームのメガネが置いてあった。
+++
振り向くと、夕歩がいた。
ぼやけた部分など、まるでない視界の中に、夕歩が映る。
メガネを外して夕歩を見るのは、これが初めてだ。まともな視力で、初めて夕歩を自分の目に映した。
似てる…
あいつに…
似てると、クロが言ったのも、よくわかる気がした。
どうしよう…
なんでか、まともに目が合わせられない…
現実というものは、いつでも予想外の連続。
未来の予知など、誰にもできやしない。
振り向いた私の首に、夕歩の腕が回される。
夕歩が私の膝の上に座った。
正面から。
「ちょ、夕歩。」
「何?」
これはまずい。心臓が早鐘のように高鳴る。
「お、降りて下さい…」
「ヤダ。」
「うっ…」
「昨日は、別にだめだなんて言わなかったのに、今はだめなの?」
「うぅっ…」
確かに、昨日部屋に順がいない時、抱きつかれた時にはなにも言わなかったけど…
昨日と今とでは、状況が違う。ここをどこだと思っている。
お風呂場である。2人とも、一糸纏わぬ状態であるのだ。
洒落にならない。
こんな至近距離で、こんな体勢で、どうしても目が合わせられず、夕歩の肩にかかる髪の毛の先から、滴る水滴を見つめていた。
それ以上視線を落とすのも、非常に危険である。
きっと、まともに夕歩の身体が、私の目に映ってしまうことだろう。
夕歩の手が私の頬に触れ、私の顔をあげさせた。
「どうしたの?顔赤いよ。のぼせてる?」
「あ、いや…その…」
あなたのせいである、と心の中で呟いた。
確かに、のぼせている。
でも、今顔が赤いのは、夕歩のせいである。
夕歩が私との距離をゆっくり詰める。
あちこちに泳ぐ私の視線。
夕歩の瞳の外では、泳げなくなる。
自分の胸の上に、柔らかな夕歩の身体が触れるのを感じたと思ったら、そのまま夕歩は私に圧しかかってきた。
身体を支えるために、両手を自分の後ろについた。
水の中の浮力のおかげで、夕歩と自分の身体を支えられてはいるが、この状態はまずい。
高鳴る私の鼓動は、ダイレクトに夕歩の右胸に伝わっていることだろう。
「綾那…」
これだけ近くにいなければ、聞き取れないであろう程の小さな声で、夕歩が私の名前を呟いた。
私の名を呟いたその唇は、そのまま私の唇に重ねられた。
夕歩の前髪から滴る水が、私の頬に落ちて、涙のように滑り落ちて行った。
+++
綾那にキスをしたまま、両手を綾那の背中へ滑らせた。綾那の肩が震えた。
相変わらず、心だけでなく体も敏感のようだ。綾那はきつく両目を瞑っていた。
長い睫毛を濡らす水滴が、涙のように光っていた。
「ん、ぁ…」
唇を離すと、綾那の口から、溜息と少しの喘ぎ声が漏れた。
その眼は、虚ろにぼんやりとしていたが、私の気持ちを高ぶらせる輝きがあった。
どうしよう…
もう、止まれなさそう…
大丈夫?と心配したくなるほど高鳴る綾那の鼓動が、私の胸を打つ。
自分の胸に響く鼓動が、自分のものか、綾那のものか分からない。
綾那の肩口に顔を埋めて、ゆっくりと綾那の首筋を舐めた。
「ひ、あ…」
綾那の口から、大きく喘ぎ声が漏れた。そういえば、呼吸もだいぶ激しくなってきている。
「夕歩…私、もう…」
掠れた声で綾那が呟いた。
もう…なんだろ?
私は顔をあげて、綾那の目を覗き込んだ。
「もう…なに?」
綾那の両腕が私の身体を抱いた。
綾那の身体が、小さく水しぶきをあげながら、私の胸の上へと崩れ落ちた。
+++
熱い…
なんだかひどく頭がぼーっとする。
溶けてしまいそうで。
夕歩と身体の触れてるところから、溶けて行きそうで。
溺れてしまいそうで。
いや、もう溺れている。私はもう、何の抵抗もできなくなっていて…
バシャン…と水しぶきの立つ音が聞こえた。
私の耳には不思議な世界の不思議な音だけが響いた。
視界の中では、ぼんやりとした明かりが、ゆらゆらと揺れるのを見えた。
ああ、私は溺れている。
+++
「ったく、バカねー、あんた。何でのぼせるほどお風呂入ってたのよ。偶然、夕歩がいたから良いようなものの。」
「……」
綾那は何も答えなかった。答えられるわけがない。
むしろ、私がいない方が良かったのだ。ベッドの上に寝かせた綾那を、順と一緒に扇いであげていた。
「夕歩も、綾那がお風呂でのぼせて倒れたんなら、すぐにあたしを呼んでくれれば良かったのに。そうすれば全裸の綾那を全裸の夕歩と一緒に…あ、すみません、なんでもありません。振りかぶったその手を元に戻してください。」
反射的に順の淫魔発言に、どついてやろうとも思ったけど、どつかれるべきは、私である。
「ねえ、順。」
「んー?」
「これで何か飲み物買ってきて。」
「あー、そうだね。綾那、なんか飲んだ方がいいね。」
私は順に財布を渡した。部屋を出て行く順の背中に「私、コーラね。」と言った。
何かを期待する順の視線に、「順も何か好きなの買って来て良いよ。」と言った。にこにこしながら順は、部屋を出て行った。
机の上に置いてあった本で、再び綾那を扇いだ。綾那の前髪が、ふわりと揺れた。
「ごめんね、綾那。」
「いや、別に…」
「続きは今度ね。」
「…ん、…はい…」
返事が小さいとでも言おうかと思ったけど、それが逆にかわいかった。
ようやく赤みの引いてきた綾那の顔が、また赤くなるのを見た。
その時、綾那を扇ぐのに使っていた本に、目が行った。
現実というものは、いつでも予想外の連続。
未来の予知など、誰にもできやしない。
”マスターノート中3数学”
あ…
ネズミが張ったような数式が走る、私のマスターノート中3数学が、脳裏に浮かんだ。
宿題、終わってないよ…
END
「続きは今度ね」の夕歩の発言の後の、綾那の返事の「はい」のフォントが
小さいのは、意図的です。私お得意の誤字脱字とかではありませんww
あんまりこうナマナマしいものは書けませんでした。夕綾でそんなの書いたら、
私のパソコンに鼻血の血飛沫が飛び散るよww
続きのお話「予想外の連続〜another
story〜」もどうぞ。
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