狂気の私が
ゆかりの左頬を
切り裂いた。
誰よりも、何よりも、
大切な人を
私がこの手で
傷つけた。
Did you sleep
well?
「ゆかり…」
綾那は飛び跳ねるようにして、ベッドから起き上がった。走った後みたいに、息はあがり、汗をかいていた。
何という目覚めだろう。
時計を見ると、まだ午前2時。あの日、ゆかりを傷つけてから、いくらもたっていない。だからこんな夢を見るんだ。
身体を再びベッドに横たえたものの、とても眠れそうにない。また、夢を見てしましそうだ。
綾那は、自分の手の掌を見つめた。
―私だ…私なんだ。
汗をかくほどの熱さも、今はどこかに消えてしまった。むしろ、汗の引いた身体は冷え切ってしまっていた。
綾那は起き上がり、ベッドを抜けだした。
あの悪夢から逃れられる場所など、どこにもないというのに。こんな寒さの中、一体どこに向かうというのだろう。
部屋の扉に向かって歩き出した時、さっと音がして、何かが綾那の目の前に降ってきた。
内的世界ばかりを見つめている綾那は、外界に対する反応が鈍っているようだ。
普段なら、驚いて声をあげて、目の前にいきなり現れたその人間を殴り飛ばしでもしただろう。
一足飛びにベッドから飛び降りてきた順が、部屋を出て行こうとする綾那の前に立ちふさがった。
綾那に、それが順であると認識するだけの時間を与えた後で、
順は両腕を綾那の体にまわした。
熱を失った綾那の身体に、再び温度が与えられる。
―なんで、こいつは突然こんな優しくなんのよ…
++
声が、聞こえた気がした。
下のベッドから、ばさりと音がして目が覚めた。
続いて聞こえる、喘ぐ綾那の呼吸音。
―またか。
あの日以来、綾那が夜中に突然目を覚ますこと幾夜。
「ゆかり」と、自分で傷つけてしまった彼女の名前を口にすること幾夜。
順はその度に、目を覚ます。何もできないでいる自分の無力さを感じずにはいられなかった。
落ち着いたかと思ったが、再び下のベッドから綾那の起き上がる音を順は聞いた。綾那がドアに向かって歩き出したのを、暗闇の中で見た。
暗闇の中、遠く離れて行くのを、ただ見ていた。
見て見ぬ振りをするのは、実に容易い。何もせずにいればいいだけなのだ。しかし、そのことから生じる罪悪感に耐えることは、実に難しい。
綾那が苦しんでいるのを目の当たりにしながら、それを見過ごすには、順は優しすぎた。
ベッドを飛び出し、綾那の前に立ちふさがり、無力な両手が綾那の身体に伸びた。
+++
今だけなら、許される気がした。
綾那の手が順の背中に伸びて、その手が順の服を握りしめた。
苦悩する頭が、順の肩にもたれかかった。
「お、珍しくかわいーですね、綾那さん。」
「うるさい…」
順の耳元で囁かれる、それはそれは小さな声。胸が引き裂かれそうになる程切なさを帯びた、今にも泣き出しそうな綾那の返答。
無言のままでいてくれた方が、順にとってどれ程、楽だっただろう。
―どうすりゃいいのよ。
大丈夫ではないのに、「大丈夫」と言うなんて、何と無責任なことだろう。
そんな無責任な一言が、一体何になる。気休めにもならない。
ここって時に、必要な一言が出てこないのはどうしてだろう。
大切な人であればあるほど、その人が苦しんでいる時に、何もできずにいるのはどうしてだろう。
何かしなくちゃいけないのに、何もできないでいる焦燥感。息がつまりそうな切迫感。
―辛いのは綾那のに…
順の心臓は早鐘のように、鼓動した。
それに比べて、右胸に伝わる綾那の鼓動は、今にも止まりそうな錯覚を感じるほど落ち着いているのに。
「寒いし、もう寝よ。」
やっと出てきた言葉がこれかと、順は自分の不甲斐なさを痛感する。言いたいことはもっと別に、あったはずなのに。
順がそう呟くと、順の背中にまわされていた腕が解けて、身体が離れて行った。心なんて、ずっと前から遠く離れているけれど。
さっきまで、腕の中にあった体温さえ疑ってしまう。
「私、いつも寝てる時に何か言ってる?」
再びベッドに横になりながら、綾那が順に問いかけた。
一瞬、どうこたえるべきか、順は困った。
しかし、嘘をつくことに、どれほどの救済があるというのだろう。
「うん。アンタ、しょっちゅう染谷の名前呼んでる。」
「ごめん…」
綾那の謝罪が、かえって順の心に重くのしかかった。
順は、綾那のベッドの手すりに腰かけた。
「大丈夫?もう少しそばにいよっか?」
「…じゃあ、もう少しだけ。」
順の問いかけに、少し間を置いてから、綾那は答えた。
答えながら、背中を向けて座っている順を、少しでもつなぎとめておきたくて、綾那は左手を順の左手に伸ばしかかけて、引っ込めた。
「あ、でもやっぱいい。」
順の背中で、再び綾那の声がした。
「いいの?」
「あんたが寒いだろうし。ただでさえ私のせいで眠れてないし…」
―いいのに。そんなことどうだって。あたしだってあんたに何もしてあげられてないのに…
「別にいいのに…いっそ泣き叫んでたって構わないのに。
あたししか、いないんだし。」
順はベッドの手すりに腰かけながら、前に足を投げ出した。その度に、ベッドが音を立てて軋んだ。
順は再び地に足をつけた。足はすっかり冷え切っていた。でも、心の方の冷たさには敵わない。
そのあとで、再びベッドの軋む音がした。順が振り返ると、綾那がベッドの中で体を起こしていた。
「順…ごめん……おやすみ…」
おやすみと言いながら、綾那は順の背中を押した。
「おやすみ…」
立ち上がった順は、背中を向けてベッドに横になった綾那に呟いた。
―たとえばあの頃の染谷なら、綾那がこんな風になっている時に、どうするんだろう…
冷えた体をベッドに横たえたながら、順は考えた。
―染谷相手なら、綾那もためらいなく甘えるのかな…
+++
次の日、順は廊下でゆかりを見かけた。
2つの意味で、未だに傷の癒えていないであろう、その人を見て順は思った。
―染谷は、夜眠れてんのかな…
END
背景と文字色を普段と変えてみたり。
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