frachir toute les difficultes
星奪りが終わり、教室に戻ろうと歩いている途中、酷い眩暈がした。2本の足は、かろうじて体を支えている。
言いようのない倦怠感に襲われながら、夕歩は体を引きずるように廊下を歩いていた。
ああ、これはやばい。
倒れたことなんて、夕歩には何度もあった。
今ではもう、どこまでが自分の限界なのか知っている。
晴れた日なのに、暗転していく視界。静寂ではなく無音が訪れる。
身体を支える糸を失った操り人形のように、夕歩の体は崩れて行った。
+++
星奪りの終わった後、無道綾那は授業に戻るべきか、いっそさぼってしまおうかどうか迷っていた。
そんなことを考えているうちに、他の剣待生はすっかり教室に戻ってしまっているらしく、校舎は実に静かだった。
今更、教室に戻るのもどうかと思い、綾那はさぼることに決めた。
その道すがら、廊下によく知った人の背中を見つけた。うつむいて、肩を落とし、身体を引きずるようにして歩いていた。
「夕歩。」
その声は決して大きくはなかったが、静かなコンクリートの校舎の中で、よく響いた。しかし、名を呼ばれた彼女は振り返らなかった。
ああ、あれはやばそうだ。
綾那は今にも倒れそうなその背中に、歩み寄った。
突然、目の前の夕歩の体が、後ろに傾いた。反射的に綾那が一足飛びに距離をつめた。
そして、夕歩の身体が、床に崩れ落ちる前に抱きとめた。
「夕歩。」
また、返事はなかった。瞳は閉じられていた。意識を失ってしまったようだ。
どうしたものか。
夕歩の部屋に運ぶべきか。しかし、鍵を持っていない。医務室…うーん。
仕方ない。背中に夕歩を抱えて綾那は歩きだした。
+++
「大丈夫?」
あの日のあの人がいた。
多分、あの日からだ。
あの人のことが、私の中で大きな存在であると気づいたのは。
体調が悪くて、早退したあの日。
寮の玄関の前で、授業をさぼってボーっとしている綾那に会った。ふらふらと歩く私を見て、綾那が心配そうな顔で尋ねた。
綾那が近づいてくる気配がして、急に体が楽になった。重力に負けそうになる私の体を、綾那の両手が支えてくれていた。
「医務室に行かなくて大丈夫?」
「うん。いつものことだし、医務室に行ったら、順がうるさそうだし。」
そのあと、心配だからと綾那が私の持っていたカバンを持って、部屋まで送ってくれた。
「何かしてほしいこととかある?」
「ん、あ、今日ね、布団干してて…取り込んでもらってもいいかな。」
部屋に着いてから、綾那が聞いてきたので、私はお願いした。綾那がいてくれてよかったと思った。
綾那が布団を取り込んで、ベッドに敷いてくれている間に着替えて、ベッドに横になる時に、綾那がもう1度聞いてきた。
「他に何かしてほしいことある?」
「あのね…」
「ん?」
もう1つ頼みたいことがあった。でも、掠れた小さな声が出てくるだけだった。
すると、綾那がベッドの手すりに腕をついて身を乗り出して、近づいた。
布団の上にかかった綾那の黒髪が、布団の白の上でよく映えた。
微かな甘い香りがした。
「順には秘密にしておいて。」
「分かった。それだけ?」
私は頷いた。
「じゃ、お大事に。」
次の日の休み時間、騒がしい廊下を、けだるそうに歩く綾那に会った。
「昨日はありがとう。」
「もう大丈夫なの?」
「うん。」
「そ。よかった。」
そう言いながら、綾那は微笑んだ。
この人、こんな風に笑えるんだ。
心揺り動かされるものがあった。
ゆかりとのあの一件が起こる前は、綾那がたまにゆかりに見せていたあの笑顔。今この瞬間に、その笑顔が自分に向けられていることが嬉しくて。
それから、綾那の笑顔を見ることはなかった。
相変わらず授業に出ない綾那に、校舎内で会うことはなかった。順からたまに話を聞く以外に、綾那のことを知る術はなかった。
順に会いに来た事を建前に、何度か部屋に行ったことがある。でも、私と順に気を遣ってか、綾那は部屋から出て行ってしまうのが常だった。
本当は、あなたに会うために来たんだけど…
+++
思い出の中と同じ、微かな甘い香りがした。
―夕歩…
あの日と同じ。
あの人が、私の名前を呼ぶのが聞こえた。
現実と夢の間で、意識の彷徨う私を、現実に呼び戻す声がした。
次第にはっきりとしてくる意識、目に映る景色が、ここは現実だと告げる。
どうやら、私は2段ベッドの下に寝ているようだ。自分の部屋だろうか。ベッドの手すりにもたれた両腕の上に、顎をのせた綾那がそこにいた。
あの日に戻ったみたい。
「どう、気分は?」
「…まあまあ。」
「そう。夕歩の部屋は鍵がかかってるだろうし、医務室に行ったら順にばれるし、とりあえず私の部屋に連れてきたんだけど。」
ここ、綾那の部屋なんだ。ってことは、今私が寝てるのは、綾那のベッドだ。あの甘い香りがしたのは、そのせいか。
「ここ、綾那の部屋?気付かなかったよ。なんか、ごめんね。」
「別に。もうすぐ授業終わるから。夕歩がいないと、クラスの子が心配するだろうから、適当になんか言ってごまかしてくるわ。ゆっくり休んでたらいい。」
淡々と、でも優しさを帯びた声で、そう話しながら綾那は私の頭を撫でた。
心の中に隠し続けてきた、綾那が好きだという想いが、叫び声をあげる。
ベッドの手すりに手をついて、綾那が立ち上がった。
―行かないで
力無き手で、綾那の制服の袖をつかんだ。
「綾那…私ね…」
分かってる。
綾那のことを大切に思ってるのは、自分だけじゃないってこと。
綾那に対する、順やゆかりやチビっ子の気持ちも分かってる。
それに、ただでさえ、いろいろなものを抱えるあなたに、私のこの想いを告げることが、あなたを辛くするだけかもしれないってことも分かってる。
抱える気持ちを、吐き出してしまえば楽になれるかもしれない。
でも、それは私から見ればの話。
私が楽になる分、私の吐きだした想いを、今度は綾那が抱えなくちゃいけなくなるんだ。
でも…
「私ね…綾那のこと…好きだよ。」
好きだという気持ちが、心という入れ物に入りきらないほど、大きくなってしまった。抱えきれず、心から溢れ出した想いが、言葉になって溢れ出す。
「私も夕歩のこと好きだよ。」
あまりに自然に返ってきた綾那の言葉。
嘘でも、その場限りの口先だけでも、その言葉が嬉しかった。
でも、私の本当の気持ちが綾那に伝わっているのか不安だった。
「あのね、違うの。そうじゃなくて、私、ずっと…本当に、綾那のことが…」
「知ってる。そんなの分かってる。」
「ホントに?」
「だって、さっきからすごい辛そうな顔してるから。」
微笑という言葉を適切に体現するような、小さな笑みを綾那は浮かべた。
袖をつかむ私の手を握りながら、反対の手をベッドについて、綾那が近づく。
ベッドが小さくギシリと音をたてた。
あの日より大分伸びた綾那の黒髪が、私の肩にかかる。
綾那の唇が私の唇に触れた。
あの日と同じ、甘い香りがした。
その黒髪で、私の頬をかすめながら、綾那はゆっくりと離れた。
「大丈夫。夕歩の気持ちは伝わってるから。」
「ん、良かった。」
「他に何かしてほしいことある?」
「あのね…」
「ん?」
「順には秘密にしておいて。」
綾那は少し考えてから、口を開いた。
「どっちのこと。」
「どっちもだよ。」
END
タイトル「frachir toute les
difficultes」は、フランス語で「あらゆる困難を乗り越える」という意味です。
日本語でもフランス語でも、力ある素敵な言葉だと思います。正確なスペリングでは「difficultes」の「e」の上に、アクサンテギュ(フランス語の綴り字上の記号)が入ります。
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