恋だと気付くそのために
「先輩?」
開け放したロッカーの前で立ち尽くす槙にゆかりが声をかけた。
ハッと我に返った槙は顔をあげて呼ばれた方を見る。
ゆかりが不思議そうにこちらを見ているのに気付いて、手に持っていたものをロッカーの中にしまった。
今、一番会いたくない人だった。
「大丈夫ですか?」
「え?」
その一言に心臓をつかまれたようだった。
大丈夫ではない自分を見透かされたような気がしたから。
「お昼ご飯、一緒にと思ったんですけど」
「ええ、大丈夫よ」
自分の動揺を悟られまいと、平静を装う。
実際できているかどうかは分からないが、自分はそのつもりだ。
自分の声は、笑顔は今、ゆかりの目にいつも通りに映っているだろうか。
ゆかりからは槙が手に持っていたものは、手紙のようなものだったとしか分からなかった。
もちろん、そんなことをゆかりがいつまでも気に留めているわけもなく、それはすぐに忘れ去られた。
その何かを手にロッカーの前で立ち尽くす槙の姿を、再び思い出すことになるその時まで。
+++++++++
放課後の美術室で美術部副部長が読んでいたのは、いつかの日に槙がロッカーの前で読んでいた手紙である。
美術室にはもう、槙と副部長の2人しか残っていない。
「これは、…また見事にラブレターね。」
副部長は興味津々にその手紙を読んでいた。
「しかもまた、ストレートなのきたわね。好きですだって。付き合って下さいって!」
興奮気味の副部長が、にやけながら手紙のセリフを口走った。
「ちょっと、そんな、読まなくていいです!」
文字で読むだけでもかなりの破壊力だというのに、声にして読まれると、なおのことダメージが大きい。
もう何度読んだか分からないその手紙の内容は、いまでは暗記してしまっているほどだ。
授業の時、部活の時、食事の時、どこにいても何をしていても忘れようと思っても、気が付けば手紙のことが頭に浮かんでしまう。
もちろん、ゆかりといる時も。
「はぁ…」
槙は大きくため息をついて肩を落とした。
「で、どうするのよ」
「どうするって」
「返事よ返事!」
景気よく副部長が槙の肩を叩いた。
「うっ…本当に、どうしよう、かと…」
答える声は弱々しく、もはや語尾はろくに聞き取れないほどだった。
「で、どうしようかと悶々と考えて弱ってたところで、私に見つかったと」
「うっ…」
肩におかれた副部長の手がやたら重く感じられた。
「ただでさえ最近おかしかったのに、何か読みながらため息ついてるの見つけたらそりゃあ、あの手紙に何かあると…」
「本当に秘密ですからね!」
副部長に釘を刺す。
自分の様子がおかしかったのが周りに悟られてしまっていたことがつらい。
「手紙の文面からしても真面目というか誠実そうな方ですし、だから……その、…」
「だから?」
「…だから、…だからこそ」
語尾に至るにしたがって声が小さくなって行く。
「なんて返事したらいいものか…」
「でも1週間たったら返事しないとでしょ。あ、もう明後日か!屋上で待ってるんでしょ。屋上で!屋上で!!」
副部長は屋上というロケーションが気に入ったのだろうか。
「で、屋上で槙も『私も好きですよろしくお願いします』っていうんでしょ!」
「ええぇぇッ!いやいやいや!なんでそういうことになるんですか!」
すっかり参って弱っていたが、ここは大声を出さずにはいられない。
「えー、いいじゃない!この1週間ってのも槙がすぐには答えられないくらい考え込むっての分かってたんじゃない?槙のことよく分かってくれてる人みたいな気がするし、案外うまく行くんじゃないかとか、会ってみたら槙もその気に」
「なりません」
「なんでよ?」
副部長が言い切るのを遮って、槙は反論した。
それに対し、副部長は間髪入れずに問いかけた。
副部長に他意は全くなかった。
いわば、「その気になったりしちゃってもいいじゃない」という好奇心というか冷やかしというか、囃し立てるといったような気持ちから発せられた問いだった。
けれど、槙にはその「なぜ」が重く響いた。
自分の刃友の顔が脳裏をかすめる。
そういえば、ゆかりにも自分の様子がおかしいことは、ばれてしまっているのだろうか。
「ま、とにかく期待してるから!」
副部長は手紙を槙に返し、不吉な言葉を残して去って行った。
一体、何を期待しているのか。
「はぁ…」
この手紙をもらってから何度目か分からない溜息が、たった一人の美術室で無駄に響いた。
もういっそ何も見なかったことにして、返事もせずに思い出にしてしまえば、なんていうことさえ考えた。
この手紙も捨ててしまえば。
けれど、いざ手紙を手にして、そこに書かれた字と文面から思い浮かぶ手紙の差出人の人柄を思うと、とてもそんなことはできない。
手紙を捨てるなどという、人の好意を無下にするような考えが頭に浮かんだこと自体にさえ、罪悪感を感じた。
こちらも誠心誠意、返事をしよう。
そうやって思い直しては、じゃあどう返事をすればと考え込み、と思考は巡る。
副部長も帰って自分以外の部員が全員帰った後の美術室。
ここでなら一人にもなれるし、答えも出そうな気がした。
手紙片手に頭の中で言葉が巡る。
こんなふうに言えば、あんなふうに言えば。
色々な考えが浮かんでは消えて行く。
どんな風にいえば、自分の言いたいことが伝わるだろう。
その思考は、唐突に開けられたドアの音で強制的に終了した。
「ゆかり」
思わず声が出た。
ドアの音と同時に槙は反射的に手紙を畳んだが、手元で焦るように畳まれたその紙をゆかりは見逃さなかった。
数日前。
昼食に誘いに行ったあの時。
思えば、あの手紙のようなものを持ってロッカーの前で立ち尽くしていたのを見たあの時から、何かが変だった。
「先輩に用があって。まだ寮には戻ってなかったので、だからまだ美術室にいると思って」
「ああ、ごめんなさい。用って何かしら?」
そういいながら槙はゆかりに背中を向けて、手紙を鞄にしまった。
「それ、何ですか?」
爆弾でも投げつけられたような気分だ。
それでも
「何?用ってそのこと?」
と、動揺を覆い隠すための愛想笑いを浮かべながら答えて、必死にはぐらかしたつもりだった。
しかし、槙の問いにゆかりの答える声はなく、その沈黙はおそらく切り返しは許さない、答えろ、ということなのだろう。
怒らせた気がした。
振り返ってゆかりをみるのが怖くて振り返れない。
怒ったゆかりの顔が鮮やかに浮かんで、自分の想像力を呪った。
ゆかりを怒らせるのも、もう何度目だろう。
諦めの溜息をつきながら槙は振り返った。
ごめんなさい、と。
そう、一言謝って、それからなんと言おうか。
そんなことを考えていたのに、振り向くとゆかりは思いのほか真剣な顔で自分を見つめていたことに気付いて、槙は言葉に詰まった。
不自然に動きが止まった槙を見て、ゆかりは今の自分の表情がどうやら相手を動揺させるものであったらしいことに気付く。
先に口を開いたのはゆかりだった。
「あ、いえ。その、…別に困らせたいわけじゃないんですけど」
ゆかりは視線を自分の足元に落とした。
「ただ、先輩、最近様子がおかしかったですし、その、心配で」
少しうつむきながら何やらもにょもにょと小さな声でそんなことを言うゆかりが、不意に可愛く映ったことは黙っておこう。
心配させたくないと思っていたから黙っていたのに、結局そのせいで余計心配させてしまったことが情けない。
「どうぞ」
槙は問題の手紙をゆかりに差し出した。
ゆかりは戸惑いの表情を見せた。
「いいんですか」
槙は何も言わずにゆかりの方に手紙を差し出し、ゆかりは手紙を受け取った。
ゆかりがこういうものにミーハーな反応を見せるとも思えなかったし、誰かに言ってふってまわるようなこともないと分かっていた。
それに、案外いいアドバイスの1つでもくれるかもしれない。
ゆかりはなんと言うだろう。
手紙の開かれる音が緊張感を煽る。
「えーっと、突然のお手紙」
「ちょっ…!音読はしなくていいわ。ゆかりに声出して読まれると色々くるものがあるから!」
もっとも止めなくても、そこに書いてある内容の破壊力のあまり、自分から読むのをやめることになったと思うが。
手紙を読み進め、ゆかりの表情が照れるのと驚くのを同時にするようなものに変わって、
「…うわぁ…」
と声が漏れた。
「うわぁ…」に込められた感情をあえて言葉で説明するなら、驚きと恥ずかしさと、あとなんだろうか。
ついでに、副部長にうっかりばれてしまっているという先ほどの出来事も話すと、
「…うわぁ…」
と、さっきよりも一段と抑揚の付いた声でゆかりがリアクションする。
「それにしても、屋上ですか…」
副部長といい、屋上にはなにか、そんなにまで人を引きつける何かがあるのだろうか。
「いや、その…なんていうか、…すみません」
ゆかりの口から出てきたのはなぜか、謝罪だった。
なにか、とりあえず「すみません」と言いたくなるような、そんな気分だった。
無駄なものがなく、ストレートにつづられた言葉の破壊力を思い知らされた。
あさっての方向を見ながらゆかりは手紙を返した。
槙もまたあさっての方向をみながら手紙を受け取り、すぐに鞄にしまった。
そのまま2人とも黙ってしまい、何とも気まずい沈黙が流れる。
「あ、そうそう。で、用事ってなんなの?」
その場を取り繕うように槙は尋ねた。
「え、ああ」
そういえばそんなこともありましたね、と言わんばかりの調子でゆかりが返事をする。
どうやら用のことなどすっかり忘れていたらしい。
「あの―…」
そうして、2人で話しながら美術室を出た。
結局、問題の手紙のことはもう話題になることはなかった。
++++++
そして、いよいよ明日は、という日も美術部は活動していた。
残っているのが、槙と副部長とゆかりの3人だけになった途端、副部長がソワソワしだした。
槙が不思議そうな様子で副部長をみていると、目が合った。
副部長は足早に槙に近づき、肩を組んで耳打ちした。
「ちょっとちょっと!いよいよ明日だけど、どうなの?」
ソワソワしていたのはおそらくそういう理由なのだろうと予想してはいたので、
「その話ならヒソヒソしなくていいですよ。もうゆかりにもばれてますから」
と、ゆかりにも聞こえる声の大きさでさらっと答えた。
すると副部長は今度はゆかりの方へと足早に近づき、
「ちょっと!なに落ち着いちゃってんのよ。槙のこと、とられちゃうかもしれないのに!」
とゆかりに迫った。
「いッ!?いや、とられるとか、別にそんな」
副部長の謎の気迫に押される。
「それよりも今日は早く帰らないといけないんじゃないんですか」
「うっ」
槙の言葉に副部長は時計を仰ぎ見た。
「まだまだ冷やかし足りないんだけど」
「早く帰って下さい」
ゆかりが呆れたように促した。
副部長がいなくなったらなったで、相変わらず悶々として、憔悴した様子の槙と2人だけになってしまうことに若干の抵抗を感じながらも。
副部長がぎりぎりの時間まで残ってこうして喋っているのも、もしかしたら少しでも空気を和らげようという気遣いがあるのかもしれない。
などと、一瞬そんなことを考えたが、副部長をみると、最後にもう一発うまいこと冷やかしのセリフをかましてやりたいなと考えているのだろう、実に楽しそうな顔をしていたので、
「もう冷やかしは結構です」
とゆかりが言うと、なぜばれた、と驚いたような顔をしてから、副部長は「じゃ」と言ってあっさりと帰って行った。
怖いのはむしろ明日、槙が問題の約束を果たした後である。
事の一部始終、一字一句尋ねては冷やかしそうで恐ろしい。
ゆかりがちらりと槙をみると、思いのほか絵を描くのに集中していた。
あれで実は内心、あれこれと思い悩んだりしているのだろうか。
もっとも、2つのことを同時にできない人だから、それはない気がした。
むしろ、内心あれこれと思い悩んでいるのは自分の方だ。
一体、何と返事をするつもりなのだろうか。
そもそもYesかNoのどちらで返事をするつもりなのかも、きいていなかった。
自分の中で、どこか勝手に断るものだと思っていた。
だからこそ、副部長の「槙のこと、とられちゃうかも」発言には戸惑いを隠せなかった。
―そうだ、断るとは限らない。
先輩が誰を好きになろうと、誰に何と言おうとそれは先輩の自由で、と思っているのに、「断るものだ」と、あるいは「断って欲しい」と思う自分の「予想」や「期待」がある。
その「予想」や「期待」が槙の自由を受け入れるのを邪魔する。
なんて返事するつもりなんですかと、一言訊くことが出来ない。
あの思い悩んで疲れた姿を見て、なんて返事するつもりなのかを一番悩んでいるのは本人だと分かっているからこそ、そこに答えをせかすような質問ができないというのも確かにある。
でもそれだけじゃない。
どんな答えが返って来てもいいと本当に思っているなら、なんて返事をするつもりなのかと質問するハードルは、こんなに高くなかったはずだ。
そんなことを考えていると、
「ゆかり」
と、突然名前を呼ばれて、ゆかりは鉛筆をもてあそんでいた右手を止めた。
名前を呼んだその人の背中を見つめた。
「…」
「…」
何を言われるのかと続く言葉を待ったが、2人しかいない静かな美術室に沈黙が続く。
名前を呼んだ本人は、描いている途中の絵と見つめ合ったまま、相変わらず黙っている。
ゆかりは長い沈黙に幾分気まずさを感じ始めた。
しかし、ゆかりが自分から声をかけるのもためらっている間に、槙は筆をとり再び絵を描き始めた。
―え、…何?
「ちょちょ、…ちょっと!先輩!なんですか?」
堪らずゆかりは声をあげた。
「え。なに、どうしたのゆかり?」
槙は全く状況が分からないといった風に、目を丸くして振り返った。
意味が分からないのはこっちの方だと思いながらゆかりが尋ねた。
「いや、今。先輩、私のこと呼んだじゃないですか!」
「え、やだ。本当?」
「えぇッ!?」
2つこのことを同時にできない人だとは思っていたが、ここまで来ると若干、というよりもかなり心配になる。
「やだわー、ごめんなさい。絵に集中してて、その…」
と、槙は歯切れ悪く、なんでゆかりのこと呼んじゃったのかしら、など独り言のようにつぶやいた。
「いえ、大丈夫です。先輩が絵を描くのに夢中だったんだってことはよく分かりました」
「あはは、ごめんなさい」
申し訳ないと思っているからなのか、笑いながらさっきよりも少しだけ小さくなった背中を見ながらゆかりは安堵の溜息をついた。
絶妙なタイミングで名前を呼ばれ、ゆかりはかなり焦った。
けれど、自分が焦ることじゃない。
そう言い聞かせ、ゆかりは槙に背中を向けてスケッチブックを開いた。
スケッチブックに鉛筆を走らせる音が聞こえてから、槙はこっそり振り返った。
どうか悟られていないようにと願った。
名前を呼んだのは、無意識じゃない。 その先で続く言葉があったのに。
―明日、私…なんて答えたらいいかしら。
そう、きこうと思っていた。
けれど、名前を呼んで、喉元どころか口元辺りまで出かかっていたこの一言が声にならなかった。
だって、本当にききたいのは、そんなことじゃない。
「ねぇ、ゆかり」
ゆかりの鉛筆の音が止まる。
「今度は、無意識じゃないですよね」
「明日、…」
明日という単語に、思わずゆかりに緊張が走る。
「私…なんて答えたらいいかしら?」
その質問に対し、自分がなんて答えたらいいだろう。
ゆかりは思わずうつむく。
質問の意図も、なんて答えたらいいかも、分からないことが多すぎて、でもそこを分かってしまうことも怖くて。
でもただ1つ、はっきりしていることがある。
―迷わないで。
心の中で呟いた。
「えと、…なんて答えたらいいかは、私にも分からないですけど」
きっと、先輩が迷わずに断る気でいてくれたなら、こんなに悩むこともなかったんだろうなと思った。
どうか、迷わずに断っていつも通りの、これまでと変わらない先輩であって欲しいと、それが自分勝手を含む願いだと知りながらもそう思った。
感情に負けて、本音を呟いてしまいそうなわずかな衝動を心の片隅に感じた。
その気配が大きくなってしまう前に、どうか今この一瞬、いつも通りの自分でいられるうちに。
「こうすれば、ああすればって、多分先輩はそういうことをすごく考えちゃうんだと思うんですけど」
まさにその通りで、槙は失笑した。
「どうすればいいかの選択肢はいっぱいあって。ただ、先輩がどうすることを選んでも、私はそれが一番うまく行くように応援します」
槙はこの一言で、気づいた。
自分が求めていたのは「助言」ではなくて「保証」だ。
断ることは、はじめから決めていたのに。
ただ、そこでゆかりからの保証が欲しかっただけ。
それこそ、自分はゆかりのものでもないのに。
ゆかりから保証を与えてもらわないといけない理由があるわけでもないのに。
「私、駄目ねー…」
「えぇ!何で急に!駄目じゃないですよ!」
今だってそうだ。
駄目じゃないって言われて、安心している自分がいる。
でも、
「ありがとう。なんだかうまくやれそうな気がしてきたわ」
本当に、そんな気がした。
++++++++
次の日の放課後の美術室。
「あれ、今日は部長いないんですね」
「ああ、今日はちょっと用があるらしくてね」
と、副部長が事もなげに答えるのをゆかりはきいていた。
今、振り返ってうっかり副部長と目が合うと、冷やかしのセリフが飛んできそうだったのであえて黙って絵を描いていた。
そのまま部活の終わる時間になり、副部長も含め部員はみんな帰って行ったが、ゆかりは残った。
副部長は帰る時、残念そうな顔をしていたので、おそらく冷やかす気満々でいたのだろう。
そんなに長くかかることでもないはずなので、美術室に戻ってくると思っていた。
けれど戻ってこなかった。
そのことがゆかりを不安にさせた。
乾き始めている水彩絵の具に水を足して混ぜた。
そんなことをしてたために絵の具は段々と薄くなってしまった。
絵の具を足そうと手を伸ばしたところで、後ろから声がした。
「それくらい薄い色も私は好きだけどな」
突然の声にゆかりは激しくびっくりした。
振り返ると、わずかに開いた美術室の扉から顔だけ覗かせた槙がいた。
「先輩。あー、びっくりした。脅かさないで下さいよ」
突然の声に驚いたが、振り返って見えた槙の笑顔になんだか安心した。
「ごめんなさい。もうみんな帰ったの?」
「ええ。私もそろそろと思ってたところで」
ゆかりは道具を片付け始めた。
もういい時間だし、これ以上残っていても絵は描けそうにない。
「手伝おうか?」
「あ、大丈夫です。すぐ済みますんで」
水を捨てて、筆を洗いながら、ゆかりはタイミングをうかがった。
ただ、間を空ければ空けるほど、きっとききづらくなる。
「それで、先輩。放課後の、どうでしたか?」
何がをはっきりさせずとも、ゆかりが何のことをきいているのかは、はっきりしていた。
ゆかりの絵の具を1つずつしまいながら、槙は答えた。
「ああ、それなら『私も好きです』って言ってきたわ」
―ッ!!?
「えっ…」
水道の水も出しっぱなしのまま、ゆかりは濡れた手もそのままに立ち尽くした。
「ええぇぇッ!」
ゆかりの濡れた手から滴る水滴が床を濡らす。
あまりに突然過ぎて、予想外過ぎる展開に驚くしかなかった。
とりあえず、ちょっと待って欲しい。
疑問を持つよりもショックを受けるよりも何よりも先に驚きがあって、何も考えられない。
ゆかりの絵の具を片付け終わった槙が、立ち上がってゆかりに近づく。
槙は蛇口をひねって、ゆかりが出しっぱなした水道の水を止めた。
キュッと蛇口が閉まる音がしてから槙が言った。
「なーんて、嘘よ」
―ッ!!!!??
「………ええぇぇぇッ―!!!!」
「ちゃんと断ってきたわよ」
そう言いながら見せた笑顔がいつも通りで一瞬安心したが、そんな気持ちをかき消すほどに動揺が収まらない。
「ちょ、…ちょっと、やめて下さいよ、もう!びっくりしたじゃないですか!」
「あはは、私のこと、とられたかと思った?」
「とられたとか、そういうことじゃありません!だって、別に、先輩は私のものじゃないですし」
ゆかりは濡れた筆を拭きながら槙の方は見ずに、愚痴のように呟いた。
「あら。じゃあ、あなたのものになろうかしら」
ゆかりは折角拭いた筆を水道に落とした。
偶然このタイミングで筆を落としただけなのか、動揺して落したのか自分でもよく分からない。
ただ、この一言が嬉しくなかったといえば嘘になる。
「あれ、動揺してる?」
槙は落ちた筆を拾ってゆかりに渡した。
「もう、冷やかしは結構です」
顔半分を覆う長い前髪でゆかりから槙の表情は見えなかったが、代わりに自分の表情も見られないので丁度いい。
自分でも分かるくらいに顔が熱い。
ゆかりにとって槙は間違くなく特別な存在だった。
美術部の部長で、絵がうまくて、自分を見ていてくれた人。
自分の事情を知りながら、今一緒に星をとってくれる人。
その優しさが、強さが、在り方が。
そのすべてが自分の中でこの人を特別にする。
今はもう、ただ”特別”なだけじゃなかったのかもしれない。
副部長の「槙のこと、とられちゃうかも」発言に動揺したことも、放課後の屋上での返事に「迷わないで」と願ったことも、ついさっきの「あなたのものになろうかしら」発言を嬉しく思ってしまったことも全部、これまでの特別じゃ説明できないかもしれない。
それは恋だと素直に思えたら、どれだけよかっただろう。
あの手紙を読んで気づいてしまった。
―自分もこの手紙を書いた人と同じなのかもしれない。
どうして今頃、気づくんだろう。
だって今じゃもう、区別できない。
槙を巡って自分の中に起こる感情が、嬉しいと思うことも動揺することも、それがこの人が自分にとってただ特別なだけだからなのか、恋だからなのか。
恋なのかそうでないのか。
どっちつかずの不安定なグレーゾーンの上で揺れる。
自分の中に、槙に対して特別以上の感情の可能性に気付いてしまった以上、もうそこに安住してはいられない。
けれど、「恋」の方へと振り切れることもできない。
それこそ、副部長が鼻息も荒く、食いついてきそうな大スクープ、一大スキャンダル級の事態だと自分でも分かっている。
恋へと振り切ることが、自分に安心や幸せを約束してくれるわけでもない。
水道の冷たい水に触れて、わずかに冷静さを取り戻す。
全てを片付け終わると、
「終わった?」
「あ、はい」
槙が声をかけた。
「それじゃあ帰りましょうか」
「ありがとうございました」
「ん?」
「片付け、手伝ってもらっちゃって」
「ううん」
悶々とした心の中とは違って、いつもと変わらないように喋って槙の隣を歩く自分がいた。
だから、やっぱり恋かそうでないかが分からない。
ただ、これが恋だとして、いつか自分がそれに気づく日が来るのなら、どうかその時もこの人のそばにいられるようにと願った。
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