cinderella―シンデレラの条件― 空がすっかり暗くなった頃にようやく順はドアを開けた。 「いてっ。」 数センチドアが開いたところでドアが何かにぶつかり、綾那の声がした。 「あー、やっと開いたか。」 綾那が腰を押さえながらドアを開けて部屋に入った。 冷たい風と一緒に走り去った時と一緒、制服を着たままの、けれどいつもと違う空気を纏った順がそこにいた。 暗闇に立ち尽くす順の表情は綾那の目に映らない。 「ごめん…」 順の口から出てきたその声は、本当にそこにいるのが久我順なのかと思わず疑ってしまうほど重い響きだった。 部屋の明かりのスイッチに手を伸ばしかけた綾那の手を、順がつかんだ。 「はいはい…」 一瞬間をおいてから溜息交じりに呟いて、綾那が引いた。 真っ暗になるのはどうかとも思ったが、部屋のドアを閉めた。 それでも部屋には月明かりという明かりが差していた。 校舎を出た時、遠くの空に満月があったのを思い出した。 綾那は机の上に鞄を置いた。 鞄に手を添えたままドアの方を見ると、鞄を胸に抱きかかえ俯いてドアに背をもたれている順がいた。 階下のどこかの部屋の剣待生が笑う声が聞こえた。 近くの部屋のドアが開いて閉まる音も聞こえた。 違う世界の音だった。 静寂。 それは人の心を落ち着かせもするし、時として不安にもさせる。 仄暗い部屋の静寂を破ったのは、順が大きく息を吸う音だった。 シンデレラが幸せになれたのは、美人だったからでも華やかに着飾ったからでも 王子が財力と権力をもっていたからでもない。 それらは幸せの後押しをする可能性をもってはいるだろうが、それだけだ。 彼らを幸せにしたのは、きっとお互いに相手の方へと一歩踏み出した勇気と行動。 例えば、多くの女性の溢れる舞踏会で王子の方へと踏み出すこと。 国中の全ての女性に靴を履かせて、ただ1人のシンデレラを探し求めること。 ガラスの靴の持ち主は自分だと、自らがシンデレラであると告白し、ガラスの靴に足を入れること。 シンデレラの話に所説はあれど、いずれにせよ相手の方へと踏み出していく心のベクトルの存在していたことは確かである。 二十四時の魔法はいらない。 必要なのは目の前にいるその人に想いを告げる勇気。 「綾那、…」 シンデレラになれなくて良い。 ただ、この瞬間のあたしをありのままに… 「好きです…」 声が震えた。 手も震えた。 心臓の音に共鳴してしまったのかのように。 綾那は順を見ていた。 ずっと。 これほどまでに久我順と言う人間を、真剣に見つめたことがあっただろうか。 聞き間違いではない。 間違いなく今、目の前の彼女は「好きです」とそう言ったのだ。 これまでの不可解な行動の答えを与えられると共に、それ以上に重大かつ困難な問いが与えられてしまった。 「何をふざけたことを」などというような言葉でかわすことは許されない真剣な重さをもった真実の言葉。 その言葉を受け止めて、なおかつ返すには、そこに込められた順の気持ちが綾那には重すぎた。 どうしろというのだ。 順を恋愛対象でみたことなど一度もない。 順のことが好きか嫌いかで言ったら好きである。 だが明らかに順の抱えているそれとは、質を異にするものである。 なら今、恋愛対象とみてどうかと己に問うても、それはこんなすぐに答えを出せるものではない。 かといって、とりあえずなどと受け入れるには重すぎる。 そんな軽い気持ちで受け入れていいようなものではない。 「順、私…」 何か答えなければいけないと、とりあえず口をついた言葉の響きに明らかな戸惑いが表れていた。 拒絶される。 順に半ば確信に近いものを与えた。 言葉に窮する綾那がそこにいた。 きっと優しい綾那がどう言えばあたしがより傷つかないかを考えているからだと、そう思った。 窓を背に立つ綾那の表情は、逆光となって順には見えなかった。 自分の投げかけた言葉で困惑する綾那の表情が見えなくて良かったと思った。 順の手を離れた鞄が、どさりと音を立てて床に落ちた。 その音に綾那が顔をあげた時には、もう綾那の胸に顔を埋めて順が綾那の背中に両腕を回していた。 「お、おいっ…」 ありのままであるうちに、綾那に触れたかっただけ。 ただ、思っていたよりも温かく感じられる綾那の体温とか、「おい」と声をあげた時の綾那の声の震動とか、黒髪が肩を滑り落ちる音とかをを感じてしまったら、涙が滲んだ。 順は綾那から離れて、ドアの方へと進んだ。 順の手がドアノブにかかるよりも前に、綾那が順の肩を捉え、振り向かせた。 +++ 目で見たものを言葉で表現するというのは難しい。 だから写真や絵画といった芸術は発展したのかもしれない。 感情を言葉で表現するのはもっと難しい。 感情を言葉で表すのは、もはや不可能であると思う。 悲しいとか嬉しいとか大昔の誰かが決めたのだろう言葉の中から、自分の気持ちに最も近いであろう言葉を選んでいるだけだ。 言葉がない。 自分のボキャブラリーの問題かもしれないが、言葉の限界かもしれない。 自分のことを好きらしい彼女の、自分の胸にもたれかかる、この重さを表現しうる言葉はないだろうか。 月明かりが与えた順の髪の輝きを表すに相応しい言葉はないだろうか。 背中に回された順の両手が私の制服を強く握りしめ時に感じた、「胸が締め付けられる」という言葉を超えるほどの苦しさをどう表現したらいいだろう。 伸ばした両手をすり抜けて順が離れて行く時、焦燥感という言葉では表しきれないほどの焦りを感じた。 これらをまとめて言うならば、どうやら私は恋に落ちたらしい。 もっと前に落ちていたかもしれない。 いずれにせよ綾那に自覚を与えた。 決定的なのは、強引に振り向かせた順の目に僅かながら滲んだ涙をみた時。 泣かせたくないと思う気持ちと、むしろその涙の溢れるのを見たいと思う気持ちが葛藤した。 結局綾那は、どちらでもいいと思った。 順の体が寄り掛かる頼りなさそうなドアが少しだけ軋む。 ドアに追い詰めた順の顔に綾那の少し冷たい手が触れた。 順の濡れた震える唇に口付けた。 きつく瞑った順の目からいよいよ一滴の涙が零れた。 冷たいけれど優しく触れた綾那の手と唇の感触に、順の体は強張った。 順の腰から下げられた二本の刀が、ガチャリと音を立てる。 刀がドアに当たってはガタガタとうるさく音を立てた。 綾那は片手を順の腰に回して、刀を下げるベルトに手をかけた。 ベルトを外そうと綾那が手を動かすと、順の腰が小さく跳ねた。 それに構わず綾那は順の腰から乱暴にベルトを外し、床に順の刀を放り投げた。 順の腰に下がるもう一本の刀が、相変わらず音を立てる。 息が苦しくなった順が力無い手で綾那の背中に指を立てると、綾那の唇が離れた。 「…ん、ぁ…」 離れたといっても、相変わらず触れるか触れないかの距離感。 薄く開いた順の唇から漏れた熱い吐息と、背中を滑り落ちた順の手の感触が綾那を煽った。 順に息を継がせる余裕を与えてからもう一本の刀のベルトに綾那が手を伸ばすと、順の手にぶつかった。 夕歩の刀は順が自分でベルトごと腰から外した。 綾那の手が順の腰を引き寄せて再び唇が触れ合うと、順の手から力が抜けて行き、刀が徐々に順の手からずり落ちて、ガチャンと音を立てて床に落ちた。 それから綾那は唇を離した。 「ったく、私がまだ何も言ってないのに何であんたは振られた気になってんのよ。むしろその逆だっていうのに。」 順の目元で光る涙の雫に月明かりがとても綺麗に映った。 暗闇と月明かりがなければ、順の涙の貴く光るその煌めきに気付くこともなかっただろう。 「あ、綾那…?」 目が点になるという言葉があるが、今の順がまさしくその通りであった。 「誰が好きでもない相手にこんなことすんのよ。」 「…」 順の涙の煌めきが瞬いた。 順の目元にじわじわと涙が滲み溢れた。 「なんで泣くのよ。」 ほぼ無意識にあふれる涙だった。 「でも…」 綾那の指が言葉に詰まった順の目元の涙を掬った。 「なんなら、この先もやるか?」 「っ!…」 驚いた順の腰から綾那は手を離し、順の体がドア伝いに床に崩れ落ちた。 それから綾那が部屋の電気をつけた。 「あー眩し。この先も、ってのは冗談だけどね。」 もちろん順にもその光は眩しくて、その眩しさの中で綾那を見失ってしまいそうだった。 どうやら綾那は本気らしい。 「この先」発言は冗談だとしても。 「綾那、あたしのこと好き?」 「そうだと言っている。」 「じゃあ、好きって言ってよ。」 「それはだめだ。そう言おうとしたら、いきなり部屋から出て行こうとしたのはあんたでしょ。」 即答で拒否された。 「うっ…」 まさしくその通りであった。 綾那に振られる恐怖に敏感になりすぎた。 「じゃあさ、さっきの続きを…」 「やらん。」 再び沈黙が訪れる。 |