ガラスの階段 ―次の段へと踏み出す勇気―
基本的に、記憶することは自分の力で可能である。
しかし忘れることはそうもいかない。
順は結局夕歩に会うことなく、寮へと帰ってきた。
二人にうっかり出くわしてしまうことがないように、逃げるように病院を抜け出した。
三時間かかったの帰宅途中、順の脳裏に何度も浮かんだ今日の出来事。
忘れられない記憶が、また一つ増えて行く。
思い出す度に苦しくなるというのに、なぜ悲しい記憶を忘れることはできないのだろう。
部屋に綾那はいなかった。
真っ暗な部屋に差し込んだ廊下の明かりの中に、順の影が落ちている。
順は自分の影を見つめて立ち尽くした。
もう何度目になるか分からない。
あの瞬間、あの声が心の中で再生されそうになった。
遮る声がした。
「遅かったな。」
順にとって、今一番会いたいような会いたくないような人。
綾那はドアの前に立ちふさがる順の背中を押して中に入ってから、部屋の電気をつけて、ドアを閉めた。
変わってしまったのが目の前にある「それ」とは限らない。
「それ」を見る自分が変わってしまったのかもしれない。
ふと空を見上げたら、さっき見た時にはそこにあって、今もそこにあると思っていた雲がなかった。
探しても見つからない。
風が吹いたからかもしれない。
地球が回っているからかもしれない。
自分が歩き続けていたからかもしれない。
吹く風をまといながら回り続ける地球を、自分が歩いていたからかもしれない。
自分が立ち止まっても、地球は回るし風も吹く。
すべては動き続けるということ。
「順。」
綾那がゲームの電源を入れながら呟いた。順は開いた本を持ったまま顔をあげた。順の視線は綾那に。綾那の視線はテレビ画面に。
「なーに。」
いつものように飄々と順は答えた。
「あんた、好きな人いんの?」
………
「…」
「…」
「…は?」
「好きな人はいるのかと聞いたんだ。」
綾那の視線は相変わらずテレビ画面に向けられたままだった。
中学三年生の女子が発する台詞としては不自然ではない。
しかし、無道綾那の台詞としては不自然である。
ましてそれが順に向けられたものとなれば、なおさらである。
「何それ?」
「いいから答えろ。」
いないと言ってくれ。心の中で綾那は願った。
「いないけど。」
順の嘘で、綾那の願いが通じたかのように見えた。
欺いたのは、綾那だけだっただろうか。
「そか。…順、実は私…」
「嘘。いる。」
直観的に順は綾那を遮った。
綾那の言葉を、「実は私に」続く言葉を綾那に喋らせまいと。
その言葉を聞く前でなければ、言えないことがある。
順は本を置いて、ベッドから降りてきた。
「あー…」
やはりそう来るかと綾那は心の中で呟いた。
「誰だか知りたい?」
今なら言える気がした。今を逃したら、もう二度といえなくなる気もした。
「ああ、知りたい。」
夕歩だろ。
「じゃ、教えてあげる。」
後ろからと思っていたが、あいにく綾那はベッドの柱に寄りかかっていたのでそうもいかなかった。
順は綾那の横から、耳元にささやいた。
たった一度しか言えないならと、せめて忘れることなどできなくなるような愛情と切なさを込めて。
小さな声で一回だけ。
「私ね…綾那のこと…好きだよ。」
|